日本語教師への招待

皆さん、こんにちは。コミュニケーション専攻教員の松尾慎(まつおしん)と申します。日本語教育を専門にしています。東京女子大学では、日本語教員養成課程や留学生向け日本語授業、多文化コミュニケーションデザイン、卒業論文ゼミなどの授業を担当しています。皆さんの中には将来の職業選択の一つに日本語教師を思い描いている人がいるかもしれません。そこで、今回はちょっと自分のことを書いてみようと思います。

わたしは学生時代から日本語教師を目指していただけではありません。外国語大学でパキスタンの言語(ウルドゥー語)を専攻し卒業後は、バングラデシュの首都ダッカにある日本大使館で2年間勤務しました。帰国後、「また海外にでも行きたいな」と思っていたとき目に飛び込んできたのが、JICAの派遣で南米に行きませんか!という広告でした。いろいろな職種があったのですが理由もなく適当に選んだのが日本語教師でした。そして、ブラジルの田舎町で3年間、日系人の子どもたちに日本語を教えることになりました。しかし、日本語教授法を学んでいなかったわけですから、頑張ろうという気持ちが空回り、それでも、学校関係者や日系社会の方々、非日系の仲間たちが支えてくれました。

3年後に帰国し、民間の日本語教師養成講座で一から学び直しました。「学びたい!」という気持ちがとても強く毎日どんどん吸収していきました。北新宿の風呂なし、トイレ、キッチン共同の3畳アパートでの生活が本当に楽しかったです。もっと学びたい気持ちが募り、大学院に進学しました。そのときすでに30歳を超えていましたが不思議と不安より希望の方が大きかったことを覚えています。この頃、日本語教育の道で人生を切り拓いていこうという気持ちが固まったように思います。その後、国際交流基金の日本語教育派遣専門家としてインドネシアのジャカルタに3年間派遣され現地教員の教員研修や日本語講座などを担当しました。大学院修了後に台湾・台中市にある東海大學に就職しました。学生たちと本気のソフトボール部で奮闘し、全国日本語ディベート大会にも参加しました。熱血青春ドラマのような猛練習でどちらも台湾で優勝しました。そのときの学生たちとは10数年経過してもまだ交友が続いています。

ソフトボールのメンバーの集合写真
嬉しそうな様子の集合写真
優勝した瞬間

そして、2009年4月から東京女子大学で働いています。学生たちと様々な活動をしてきました。例えば、群馬県太田市は日系ブラジル人の集住地なのですが、ブラジル人教師が開いた子どもたちのための母語(ポルトガル語)教室に本学の学生たちと通い、子どもたちの学びをサポートしていました。2014年からは、東京の高田馬場でミャンマー出身難民との日本語活動を難民当事者と立ち上げました。毎週日曜日活動し、265回(2020年11月8日現在)、活動を続けてきました。その活動が東京新聞で紹介されましたので、このブログの最後にWeb版のURLを紹介します。いつか皆さんにもこの活動に是非とも参加してほしいと思います。その日まで地道にこの活動を続けていきたいと思います。

今回は日本語教師になったわたしの道のりをご紹介しました。人生の選択は何となくでもいいのかもしれません。でも、おそらくどこかの時点で本気で取り組むことは必要なのかなと思います。その「どこかの時点」がどこなのか、皆さんが人生の中で見極めることができますよう応援しています。

松尾慎

記事出所:東京新聞2020年10月29日付け夕刊1面

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