ジェンダー問題としての「河村市長金メダルかじり事件」
オリンピックで金メダルを獲得したソフトボールの後藤希友投手が河村たかし名古屋市長を表敬訪問した際の「金メダルかじり事件」は、ジェンダー問題として検討する必要がある。なぜなら、河村市長が金メダルをかじった行為のみならず、表敬訪問中のやりとりの随所にセクシャルハラスメント(以下、セクハラ)が確認できるからである。
フジテレビが公開している映像を見てほしい。コロナ感染対策のためだろう。会見当初、後藤投手と河村市長は向かい合った離れた席に座って言葉を交わしている。メダルの重さに興味を持った河村市長に後藤投手がメダルを渡すために、二人は座っていた席を離れ並び立つ。すると、河村市長は「せっかくなので(メダルを首に)かけてちょうだい」と後藤さんに依頼する。この時、河村市長は若い女性にお酌をさせるような感覚だったのではないか。この行為はセクハラと認定できる。金メダルの重さを確かめるだけであれば、手に取るだけで十分である。河村市長の首にメダルをかけるためには、二人の身体は密着に近い距離に近づくことになる。
この直後に問題となっている「メダルかじり」が起きたが、その後の河村市長と後藤投手とのやりとりの中にも明らかなセクハラがある。外見についての言及が多く、「ええ旦那もらって。恋愛禁止かね?」という発言もあった。結婚・恋愛に関する発言については、後日の会見時に報道陣からセクハラではないかと多少追及されていた。
以上のような河村市長の後藤投手の扱いには、「偉業を成し遂げたスポーツ選手に対する敬意」よりも「金メダルを見せに来てくれた若い女の子と楽しいひと時を過ごす」という気持ちが見え隠れする。8月16日の定例の記者会見において河村氏から「ハラスメント講習」を受けたことが明かされたが、今回の事件がセクハラ問題であると騒ぎにならないのはなぜか。理由の1つとして、河村市長のメダルをかじったという行為に対する人々の声がある。「非常識」「ありえない」「謝れ」などとSNS上で非難され、多くのニュースでも同様の観点から取り上げられた。河村市長は会見を開き平謝り。メダルは交換されることで決着することとなった。結果として、人の大切なものをかじる行為が断罪され、そこにジェンダーの視点からの解釈が入り込む余地がなくなってしまったと考えられる。Newsポストセブンは、「メダルかじり」の行為をセクハラの観点から論じている数少ないメディアの1つである。
2つ目の理由は、「メダルかじり」が悪目立ちしすぎたことで、その前後の河村市長によるセクハラ行為に人々の注意が向かなかったからである。この事件の象徴的な映像として「メダルかじり」のシーンのみを多くのメディアが繰り返し流したことも、一連のやりとりを検討する機会を奪ったのではないか。
「ジェンダー平等を実現しよう」はSDGsの目標の1つである。世界経済フォーラムは2021年3月にジェンダーギャップ指数(GGI; 0〜1の値をとり1に近いほど男女平等を意味する)を発表した。日本の総合スコアは0.656で156ヵ国中120位。このスコアは、近隣の韓国や中国よりも下位に位置する。ジェンダーギャップ指数は、教育、健康、政治、経済の4分野のデータの総合スコアであるが、日本は政治、経済のスコアがすこぶる低い。要するに学校卒業後の社会人になってからの男女差が大きい国なのである。国会議員、企業の役員などの指導的立場に女性が少なく、男女の賃金格差も大きい。「2030」(2020年までに指導的立場にある女性を30%に引き上げる)を実現できなかったこともあり、指導的立場に女性が少なく、意思決定過程に女性が携わることができないため、女性の意見は政策などに反映されない。極端な言い方をすれば、男性の下位に女性が位置づけられ、男性の論理に女性が従うことになっている国なのである。そのような状況でセクハラがまかり通ってしまっているのである。
そんな日本において、2018年以降、「財務事務次官セクハラ事件」など、それなりの地位にある日本人男性によるセクハラがマスメディアで報道されるようになった。その後、俳優の石川優美さんによる「#Ku Too運動」など、虐げられたり苦痛を感じたりしている女性たちが共感し連帯し、女性に押しつけられてきた慣習に異議を唱えるようになった。これらに共通するのは、①セクハラもしくはステレオタイプ的な女らしさの押しつけであると女性当事者が自覚し、②女性たちがそれにSNS上で共感し、③それをマスメディアが後押しした、ということである。今回の河村市長の一連の行為に対して、残念ながら①~③は起こらなかった。これだけ世間の耳目を集めた事件であるにもかかわらず、ジェンダー問題として批判的検討がなされないのは日本のジェンダー平等意識が低いことと無関連ではあるまい。セクハラの被害者の多くは女性であるが男性のこともある。加害者にならないために、また被害者であることは社会構造とどのように関係しているのか、またメディアがそれにどう関わり、マイノリティの連帯にメディアがどのような役割を果たすのかなど検討すべき課題は多い。女子大でそうしたジェンダー問題について学び研究することは、これからの人生において、また今後の日本社会にとって意味のあることだと思う。