「ありがとう」と「すみません」

バスで席に座っていたとします。席の横に立てかけていた傘をうっかり忘れて降りかけた時、そばの人が「傘、忘れてますよ」と教えてくれたとしたら、とっさに何と言うでしょうか。「ありがとうございます」?「すみません」?

私たちは、感謝の場面で「すみません」と言うことがよくあります。これはかなり日本語に特徴的なことのようで、他の言語、たとえば英語ではお礼を言うならThank you、謝るならI'm sorryと、はっきり分かれます(日本人が、うっかり英語でお礼を言おうとしてSorryと言ってしまったという経験談も聞いたことがありますが)。とにかく、日本語の「すみません」には日本語を学習する外国の人も戸惑うようです。

置き忘れた傘

しばらく前の新聞の意見欄で、「『すみません』より『ありがとう』と言おう」という趣旨の提言を見ました。相手の厚意には謝ることばより明確な感謝のことばを使うべきで、「ありがとう」ならポジティブに素直な喜びを表しているから望ましいということでしょう。お菓子のCMもありましたね。口グセで、何かと家族に「ごめん」と言ってしまうママに、子どもが「『ごめん』じゃないよ!」とダメ出し。それでママが思わずニッコリして「ありがとう」と言うものです。ここにも、「ごめん(すみません)」より「ありがとう」の方がステキ、というメッセージを感じます。これらを見る限り、確かに「ありがとう」の方が明るくて前向きな気がします。では、現代の日本語コミュニケーションとしては、感謝の「すみません」はもう使わない方がいいのでしょうか。

そもそも、なぜお礼の場面で「すみません」と言うのでしょう? 「ありがとう」は自分が相手から受けた恩恵に対して喜ばしい感謝の気持ちを表すものです。一方「すみません」は、その恩恵を与えてくれる上で相手が被ったマイナス(時間、労力、お金など)を認識して申し訳ないと思っていることを表します。話し手は、どちらのことばを選ぶかによって、自分へのプラスと相手へのマイナスのどちらにより注目しているか、どちらにより心を寄せているかを示すことになります。

確かに、CMに出てきたママのように家族にも、なんでもないことでも、いつも「ごめん」と言うのでは、そりゃあ「ありがとう」の方がいいよね、という気がします。でも、次のような場合はどうでしょうか。後輩から何かを頼みごとをされて、あなたはかなり時間を使い、面倒なこともした上でそれをかなえてあげたとします。その時に、後輩の反応が嬉しそうな「ありがとうございます!」だけだったら、どう感じるでしょうか? 感謝なんだから「ありがとう」でOKと納得できるでしょうか? 納得できるという人もいるでしょうし、「ご面倒かけてしまってすみません」とも言わない後輩は自分のことしか考えていないと感じる人もいるでしょう。人によって感覚は異なるかもしれません。

笑いあっている人たちのイラスト

ひとつ言えそうなのは、「どんな場合も『すみません』でなく『ありがとう』の方がいい」と言いきれるほど話は単純ではない、ということです。自分が受けた恩恵に感謝する気持ちも、その恩恵を可能にする上で相手が被った何かへの申し訳なさも、どちらの思いも同時に存在しています。(どちらをどうことばに表すかは文化や言語によって異なるわけで、日本では後者の思いを強調するメンタリティがあるようです。)両方一緒に伝えようとすれば、よく耳にする「すみません、ありがとうございます」という言い方になるでしょう。内容や相手との関係によってどちらかを選ぶ、あるいは両方セットで言うなど、気持ちよく人とことばをかわす上では表現の使い分けにも工夫が大切なようですね。

熊谷智子

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